査定

縦書きリーダー

まえがき

 この原稿は、神保町の古書店「柊書房」の事務スペースにあった段ボール箱の中から見つかった。A4のコピー用紙に片面印刷されたもので、二百三十七枚あった。付箋もメモもなく、ホチキスで止められてもいなかった。ただ揃えて、箱に入れてあった。

 箱の持ち主だった男は、何も言い残していない。

序章 査定額ゼロ

 この物語はフィクションです。登場する人物・企業・団体・事件はすべて架空のものであり、実在するいかなる個人・法人・事件とも関係ありません。

 二〇二九年十月。東京地方裁判所。

 ゴールドクレスト株式会社の民事再生手続開始決定。その日、記者会見場に水上隆久の姿はなかった。

 受付に、一枚の紙が貼られていた。

 ——代表取締役 水上隆久は、一身上の都合により欠席いたします。

 一身上の都合。全国千六百の店舗を束ねた男が、最後に残した言葉がそれだった。

 同じ日の午後。ゴールドクレスト株式会社の本社ビルは、品川駅から徒歩七分のところにある。七階建て。エントランスに金色のロゴ。かつてはエレベーターホールに観葉植物が三つあったが、今は一つしかない。残りの二つがいつ消えたのかは、誰も覚えていない。

 七階の社長室に、水上隆久は座っていた。

 机の上に書類が一つ。東京地方裁判所からの送達。原告は六十三名。北海道から沖縄まで。名前が一列に並んでいる。知らない名前の方が多い。しかし何人かは知っていた。水上が自分でメールを送った相手だった。

 水上はその書類を裏返した。白い面が上を向いた。何も書かれていない面。

 窓の外では、品川の街が普通に動いていた。タクシーが止まり、サラリーマンが歩き、信号が変わった。七階から見る街は、いつもと同じだった。

 電話が鳴った。広報部からだった。取らなかった。

 もう一度鳴った。取締役の稲葉からだった。取らなかった。

 三度目。弁護士の濱口からだった。

 水上は受話器に手を伸ばした。伸ばしかけて、止めた。

 机の上の書類を、もう一度表に返した。六十三の名前を、上から順に目で追った。一人目。二人目。三人目。読み進めるうちに、文字が小さくなったように感じた。目が悪くなったのか、紙が遠ざかっているのか。

 水上は書類を置いた。椅子の背にもたれた。天井を見た。

 三十年間、あらゆるものを査定してきた男だった。金の純度も、宝石の品位も、人間の弱みも。迷ったことはなかった。

 しかしこの日、水上隆久の最後の査定額は、ゼロだった。

 蛍光灯が、微かに唸っていた。

第一章 説明会

 二〇二〇年四月。深夜二時。

 ワンルームマンションの蛍光灯が、微かに唸っている。

 柊奏人はキッチンのテーブルに座っていた。ノートパソコンが開いてある。画面の光だけが顔を照らしている。テーブルの上には空き缶が二つと、洗っていないマグカップが一つ。流しにはスポンジが乾いたまま転がっている。

 三ヶ月前まで、ここに二人で暮らしていた。

 元妻の名前は涼子という。付き合って三年、結婚して五年。離婚届を出したのは一月の終わりだった。

 理由は聞かれれば答えられる。ただ一言では言えない類のものだった。たぶん涼子なら一言で言える。奏人はそれを聞かなかった。

 涼子が部屋を出ていく日、玄関で靴を履きながら、何か言った。具体的な文言は覚えていない。ただ奏人は「お前には何もない」という意味だと受け取った。涼子が本当にそう言ったのかはわからない。そう受け取った、ということだけが残っている。

 涼子が出ていった後、部屋は広くなった。

 広くなったのに、息がしにくくなった。

 帰宅すると玄関の照明をつけ、テレビをつけ、それからキッチンの蛍光灯をつける。三つの明かりをつけるのに三十秒かかる。その三十秒、暗い部屋に一人で立っている。いつも長かった。

 流しの横にカレンダーが貼ってある。涼子が買ったものだ。猫の写真。三月のページが開いたまま。奏人はめくっていない。四月になったことを、カレンダーは知らない。

 眠れない夜が続いていた。

 古書店の月商が五十万を割った月だった。家賃と人件費で毎月赤字が積み上がっている。離婚。赤字。眠れない。三つが同時に来ると、深夜のインターネットに手が伸びる。

 その夜、奏人は副業を探していた。「フランチャイズ 低資金 開業」。検索窓に打ち込んだ言葉は、覚えている。検索結果を上から順にクリックしていった。飲食店。コインランドリー。学習塾。ハウスクリーニング。

 どれもピンとこなかった。ピンとこない、という感覚が、自分の中にまだ残っていることに少し安堵した。

 ゴールドクレストのページを開いたのは、その夜の三番目のタブだった。ブラウザの上部にタブが七つ並んでいて、左から三番目。画面には白い背景に金色のロゴ。「買取のフランチャイズ」。

 奏人は説明会動画の再生ボタンを押した。

 水上隆久という男が現れた。五十代前半。精悍な顔。日焼けした肌。スーツは着ているが、ネクタイは緩めていた。高級時計はつけていない。

 「ロールモデルとしては月商二百万から三百万。手残りで八十万から百二十万というところです」

 奏人は動画を一時停止した。ノートにメモを取る。月商二百万。手残り八十万。数字を確認する癖がある。小さい頃から帳簿を見てきた人間の習慣だった。

 動画を再生する。

 「継続率は89.7%。業界トップクラスです。これは私たちの誇りでもあります」

 一時停止。89.7%。メモする。

 動画の中で、水上は一度、カメラを真っ直ぐ見た。

 「契約書? うちは業界で一番シンプルですよ。こんなに加盟店に優しいチェーンはないと思います」

 水上は笑った。画面越しにも伝わる、人を安心させる笑い方だった。

 奏人は、涼子が初めて笑ったときのことを思い出した。思い出しかけて、やめた。

 動画を最初から三回見た。数字をメモし、条件を整理し、リスクを洗い出した。古書店の経理を十年やってきた人間として、帳簿を読むように説明会の情報を読んだ。

 四回目は、メモを取らずに見た。水上の手の動きを見ていた。査定の実演をしている場面があった。客が持ち込んだネックレスを手に取り、ルーペで覗き、重さを量り、値段を告げる。一連の動作に迷いがなかった。

 奏人はその手を見ながら、航平の手を思い出していた。古書の背表紙をなぞる兄の指。あれと同じだ、と思った。自分の手にはない何かが、あの二人の手にはある。

 自分の店を持てば、違うかもしれない。

 奏人はそれを言葉にしなかった。ノートには数字だけが並んでいた。

 ただ一つ、やらなかったことがある。

 有価証券報告書は、開かなかった。

 金融庁のEDINETを知っている。上場企業の決算書は誰でも無料で読める。十年間、古書店の帳簿をつけてきた人間にとって、それを読む能力もある。

 開けば何かが見つかるかもしれない、という予感はあった。帳簿を十年読んできた人間の勘だった。89.7%という数字が、帳簿上どう算出されているのか。一店舗あたりの売上はいくらなのか。開業と閉店のバランスはどうなっているのか。

 確認すべきことは分かっていた。

 奏人はその予感ごと、ノートパソコンを閉じた。

 テーブルの上の空き缶に手が触れた。冷たかった。缶のプルタブに指を引っかけて、意味もなく回した。三回、四回。金属が擦れる小さな音が、深夜の部屋に響いた。

 翌週。

 柊書房。靖国通りから一本入った路地。

 昼の客が途切れた時間だった。航平はカウンターの裏で常連客のリクエストメモを整理していた。奏人はその向かいに座った。

 「兄貴」

 航平は顔を上げた。五つ年上の兄。四十一歳。日に焼けた腕。指先が黒い。インクと古い糊の色だ。社交的で、人の懐に入るのがうまい。古書店の仕入れと接客は、ほぼ航平が回していた。

 「買取のフランチャイズをやろうと思ってる。柊書房の新事業として。古書店は兄貴が回して、俺が買取店を見る」

 航平は腕を組んだ。メモを置いた。

 「数字は見たのか」

 「見た。月商二百万は厳しいかもしれないけど、百五十万ならいけると思う。手残りで五十万。古書店の赤字を埋められる」

 航平は黙って聞いていた。奏人の顔を見ている。何を見ているのか、奏人にはわからなかった。

 しばらくして、航平は言った。

 「お前が数字見てOKって言うなら、大丈夫だろ」

 奏人は頷いた。兄にはいつもそう言われる。数字を見てOKなら大丈夫。それは信頼だった。たぶん。

 奏人が言わなかったことがある。赤字を埋めたいだけなら、古書店を畳めばいい。航平が別の仕事を探せば済む話だった。しかしそれは、航平の三十年を終わらせることだった。兄の手から本を取り上げることだった。

 奏人はそれを言わなかった。カウンターの上の帳簿を手に取って、数字の確認を始めた。

 航平はメモの整理に戻った。常連客の名前を一人ずつ確認している。客の好みが、兄の丸い字でびっしり書いてある。奏人はその字を横目で見ながら、帳簿の数字を追っていた。

 契約は五月に結んだ。

 ゴールドクレストの本社は品川にあった。ビルの七階。応接室に通された。テーブルの上に契約書が置いてある。全四十五条。奏人は一条ずつ読んだ。

 水上隆久が向かいに座っていた。動画で見た通りの男だった。日焼けした肌。緩めたネクタイ。しかし画面越しとは違うものが一つあった。

 手が大きかった。

 契約書の説明をしながら、水上はペンを持ち替えた。右手から左手へ。何気ない仕草だった。指が長い。爪は短く切ってある。作業をする人間の手だった。

 第三十二条。中途解約の条項。違約金二百五十万円。

 奏人はそこで手を止めた。

 「違約金の趣旨は」

 水上は笑った。あの笑い方だった。

 「ノウハウ漏洩防止です。うちの査定マニュアルを持ち出されては困るので」

 水上は一拍置いた。

 「真面目にやっていただける方には、一切関係のない話です。ご安心ください」

 奏人はその言葉を聞いて、頷いた。

 ペンを取った。

 契約書の最終ページに、名前を書いた。柊奏人。万年筆ではない。水上から渡されたボールペンだった。書き味は悪くなかった。

 二〇二六年三月。夜。

 六年後の奏人は、自宅のデスクでパソコンを開いた。古いフォルダを探す。「GC」というフォルダ。二〇二〇年五月に作ったものだ。

 加盟前に水上から来たメールがあった。件名は「ご契約にあたってのご案内」。丁寧な文面。奏人はスクロールして、末尾の一文を見つけた。

 ——違約金はノウハウ漏洩防止のための規定です。真面目にやっている方には一切関係のない話です。ご安心ください。

 六年前と一字一句同じだった。

 応接室で水上が口にした言葉と、ボールペンで署名する前に頷いたあの一文が、六年の時を経て画面の上で重なっていた。メールの文面も、テンプレートだった。

 奏人はパソコンを閉じた。

 台所に行って、コップを取った。蛇口をひねった。水がコップに溜まっていく。

 飲む前に、カレンダーが目に入った。今のカレンダーは猫の写真ではない。百均で買った無地のものだ。四月のページは、ちゃんとめくってある。

 水を一口飲んだ。冷たかった。

 真面目にやっている方には一切関係のない話です。

 その一文を、奏人は六年間、信じていた。

第二章 柊書房

 朝七時。靖国通りから一本入った路地。柊書房のシャッターが上がる。

 航平が鍵を回した。右に四十五度。かすかな抵抗がある。三十年間、毎朝回してきた鍵だ。シャッターが上がるときの金属音が、路地に響く。向かいの古書店はまだ閉まっている。柊書房はいつも、この通りで一番早く開く。

 店内に入ると、紙の匂いがした。古い本の匂い。インクと糊と、わずかな埃。航平はその匂いを「時間の匂い」と呼んでいた。百年前の本も、十年前の本も、同じ匂いがする。ただ、深さが違う。

 航平は覚えている。この匂いを初めて意識した日のことを。

 七歳のとき、父に連れられて神保町に来た。父は書店員だった。柊書房ではない、別の古書店で働いていた。靖国通りの反対側の、もう少し大きな店。日曜日の午前中、父が在庫の確認に出ると言うので、航平はついていった。弟の奏人は家にいた。奏人は本に興味がなかった。数字には興味があったが、本には興味がなかった。

 父の店に入ったとき、航平の鼻に来たのがこの匂いだった。紙とインクと糊と、わずかな埃。七歳の航平はその匂いを言葉にできなかった。ただ、ここにずっといたい、と思った。

 父は最上段の棚から一冊を取り出して、航平に渡した。

 「触ってみろ」

 小さな文庫本だった。表紙の絵が色褪せている。航平は両手で受け取った。本は軽くて、しかし確かな重さがあった。

 「表紙をめくれ」

 めくった。ページが黄色い。活字が古い。

 「紙を触ってみろ。指の腹で」

 航平は人差し指でページに触れた。

 「どうだ」

 「ざらざらする」

 「そうだ。昔の紙は、ざらざらする。今の紙はつるつるだ。触ればわかる」

 父はそれだけ言った。航平はその本を棚に戻した。タイトルは覚えていない。紙の感触だけが、指に残った。

 三十年後。柊書房の棚の前に航平は立っている。

 棚を見回した。昨日並べた本が、そのまま並んでいる。売れていない。今日も売れないかもしれない。しかし航平は毎朝、棚を見回す。一冊ずつ、背表紙を確認する。傾いている本があれば直す。それが朝の仕事だった。

 九時。最初の客が来た。常連の男性。六十代。退職後、週に二度は来る。名前は赤羽さんという。今日は紙袋を持っていた。

 「航平さん、これ見てくれないか。実家を整理してたら出てきた」

 紙袋の中から、古い文庫本が五冊出てきた。航平は一冊ずつ手に取った。表紙を見て、背表紙をなぞり、ページを開く。紙の質を指先で確認する。

 四冊目で、航平の手が止まった。

 「これは初版だ」

 赤羽さんが身を乗り出す。「本当か」

 航平は背表紙を指先でなぞった。奥付を確認した。発行日。刷数の表記。しかし航平が見ていたのは、そこではなかった。

 「紙が違う」

 それだけ言った。赤羽さんが重ねて聞く。「どこが違うんだ」。航平は少し考えてから答えた。

 「再版は紙が白い。初版は少し黄色い。経年劣化じゃなくて、もともとの紙が違う。製紙会社が変わったんだと思う。たぶん二刷から」

 七歳のときに覚えた感触が、三十年経っても指に残っている。父に教わったのはそれだけだ。「触ってみろ」。その一言で、航平の人生は決まった。

 赤羽さんは感心した顔をした。航平は値段をつけた。適正な値段を。高すぎず、安すぎず。赤羽さんが「ありがとう」と言って帰った後、航平は初版本を棚に並べた。この本はしばらく売れないだろう。売れなくていい。棚にあることに意味がある。

 カウンターの奥で、奏人がその一部始終を見ていた。帳簿をつけながら。

 客は航平に本を持ってくる。航平が値段をつける。客が頭を下げる。奏人は帳簿にその金額を書く。十年間の役割分担だった。

 兄は本を査定している、と奏人は思った。

 紙の質。インクの乗り。背糊の状態。数値化できない何かを、指先で読み取っている。三十年間、毎日本に触れてきた指だけが知る違い。

 奏人の指は電卓のキーの位置を覚えている。それだけだった。

 水上隆久もまた、「査定の神様」と呼ばれた男だった。

 昼。客が途切れた。

 航平がカウンターの裏に回り、弁当を広げた。コンビニの幕の内弁当。奏人も自分の弁当を出す。二人で並んで食べる。毎日の光景だった。

 「今日の仕入れ、三冊入った」と航平が言った。「一冊は面白い。昭和四十年代の鉄道写真集。状態がいい。三千円でいけると思う」

 奏人は頷いた。帳簿に目を落としたまま。航平は弁当を食べながら仕入れの話をする。奏人は帳簿をつけながら聞く。いつもこうだった。航平が話して、奏人が聞く。航平が値段をつけて、奏人が記録する。

 弁当を食べ終えた後、航平は缶コーヒーを開けた。プルタブを引く音。奏人もコーヒーを開けた。同じブランドの、同じ味。二人とも微糖。

 航平が言った。

 「親父の店、覚えてるか」

 奏人は顔を上げた。

 「向こうの通りの。まだあった頃の」

 「覚えてるよ」

 「お前、あの店来たことあったっけ」

 奏人は少し考えた。

 「一回だけ。中学のとき。兄貴が棚卸し手伝えって言うから」

 「ああ、そうだったか」

 航平は缶コーヒーを飲んだ。それ以上は言わなかった。

 奏人は帳簿に目を戻した。

 父の店は、奏人が高校一年のときに閉じた。大手チェーンの進出で客が減り、家賃が払えなくなった。父は看板を外して、しばらくどこにも勤めなかった。半年後にスーパーの警備員になった。

 航平はそのとき二十四歳で、別の古書店で修行していた。父の店が閉まった翌年に独立した。物件を探して、資金を集めて、看板を作った。「柊書房」。父の店の名前ではない。新しい名前だった。

 奏人が柊書房に加わったのは、その二年後だ。会計事務所を辞めて、兄の店の経理を引き受けた。理由を聞かれたことはない。航平は聞かなかった。奏人も言わなかった。

 カウンターの上の缶コーヒーが、二つ並んでいる。同じブランド。同じ味。飲み終わるタイミングだけが、いつも少し違う。

第三章 開店

 二〇二〇年七月。

 「柊買取」は、神保町からバスで二十分の商店街の一角に開店した。八坪。家賃十二万。白い壁に、黒い看板。「高価買取」の文字は、看板屋に頼んだ。航平が手書きで書くと言ったが、奏人は断った。買取店に古書店の字は似合わない、と思ったからだ。本当の理由は違ったかもしれない。

 開店準備は一人でやった。ガラスケースを運び入れ、照明を調整し、査定用の機器を並べた。電子秤。ルーペ。比重計。どれもゴールドクレストの指定品だった。マニュアルに書いてある通りに配置する。机の上にはノートパソコン。本部の査定システムに接続されている。品物の写真を撮り、状態を入力し、本部のAIが参考価格を出す。

 七月一日。開店初日。

 午前十時。のぼりを出した。「新規オープン」「買取強化中」。赤と白の二本。

 最初の客が来たのは、午後二時だった。

 五十代の女性。紙袋を持っている。中からネックレスが出てきた。ゴールドの。チェーンが少し黒ずんでいる。

 「いくらになりますか」

 奏人はネックレスを受け取った。マニュアル通りに手順を踏む。まず目視。次に重さ。18金の刻印を確認する。ルーペで留め具の状態を見る。本部のシステムに入力する。参考価格が出る。

 「七千二百円になります」

 女性は少し考えて、頷いた。

 奏人は代金を数えて渡した。七千円札と百円玉二枚。女性は「ありがとう」と言って帰った。

 奏人は一人になった。ガラスケースの中にネックレスが一本。これを本部の査定センターに送り、本部が再査定して買い取る。差額が奏人の利益になる。

 利益は、二千三百円だった。

 最初の月の売上は、三十八万円だった。

 八月、四十二万。九月、五十一万。十月、四十七万。

 動画で水上が語った「月商二百万から三百万」には遠かった。奏人は航平に伝えたときに言った「百五十万」にも届いていない。半分にも届いていない。

 しかし奏人は焦らなかった。まだ開店四ヶ月だ。水上は「平均六・六ヶ月で損益分岐点を超える」と言っていた。あと二ヶ月ある。

 チラシを撒いた。商店街の各店に挨拶回りをした。ウェブ広告を出した。Googleの検索広告。月五万円。クリック単価は高かったが、来店客は増えなかった。

 十二月。月商五十三万円。損益分岐点の七十万には、まだ十七万足りない。

 奏人はExcelを開いた。加盟時に組んだ収支計画と、実績を並べて見る。計画の線は右肩上がりで、実績の線は横ばいだった。二本の線が交わることはなく、月を追うごとに乖離が広がっていく。

 奏人はExcelを閉じた。

 年が明ける前に、本部にメールを送った。辞めたい、と書いた。

 返信は水上本人からだった。三つの選択肢が並んでいた。どれを選んでも、金がかかった。引き継ぎ先が見つかれば、費用はゼロだと書いてあった。奏人はそれを選んだ。

 誰も来なかった。店は続いた。

 二〇二一年。二年目。

 月商は六十万円前後で安定した。安定、という言葉は正しくない。停滞だった。

 朝九時に店を開け、夜七時に閉める。客は一日平均三人。多い日で五人。少ない日はゼロだった。ゼロの日は、ガラスケースの中の品物を並べ直す。並べ直す必要はないのだが、何もしないで座っているのが耐えられなかった。

 本部からの連絡は月一回、定型メールが届くだけだった。件名は「月次レポート配信のお知らせ」。本文には「ランキングを更新しました」とだけ書いてある。ランキングというのは、全国の加盟店の月商をランキング形式で配信するものだった。

 奏人は自分の順位を見た。六百四十二店中、四百十一位。中の下。

 ランキングの横に、「個別コメント」という欄がある。本部のスーパーバイザーが各店舗に向けて書くコメント。

 「引き続き、お客様とのコミュニケーションを大切に、地域密着型の営業を心がけてください。応援しています!」

 奏人は翌月のコメントを見た。

 「引き続き、お客様とのコミュニケーションを大切に、地域密着型の営業を心がけてください。応援しています!」

 同じだった。

 その翌月も同じだった。

 二〇二二年。三年目。

 商店街に変化が起きた。三軒隣の八百屋が閉店し、跡地に大手リサイクルショップが入った。全国三百店舗のチェーン。駐車場付き。広告費は桁が違う。

 柊買取の月商は五十万を切り始めた。

 奏人は朝の開店準備をしながら、三軒先ののぼりを見ていた。赤と黄色の派手なのぼり。「高価買取No.1」。奏人の店にも同じ文言ののぼりがある。本部から支給されたものだ。同じ文言なのに、向こうの方が大きく見えた。

 その月、広告費を月八万に増やした。来店客は増えなかった。広告費とシステム利用料で月十五万が本部に消える。手残りは三十万を切る月もあった。

 古書店の赤字を埋めるはずだった。逆だった。買取店の赤字が、古書店の利益を食い始めていた。

 奏人は航平にこのことを話していなかった。月末に柊書房の帳簿をつけるとき、航平が「買取店の方はどうだ」と聞くことがある。奏人は「まあまあだ」と答える。まあまあ。便利な言葉だった。何も言っていないのと同じだった。

 二〇二三年。四年目。

 月商は六十万円前後に戻った。大手リサイクルショップが潰れたからだ。開店から一年で撤退した。あの派手なのぼりも、広い駐車場も、一年で消えた。

 奏人はその空き店舗の前を通るたびに、何かを感じた。感じたが、言葉にはならなかった。

 契約期間は五年。折り返しは、とうに過ぎていた。

 奏人はExcelを開く頻度が減った。数字を見ても、何も変わらないことがわかっていた。変わらないことがわかっている数字を見るのは、帳簿をつける作業とは違う種類のことだった。

 夜、店を閉めた後、奏人はガラスケースの照明を消す。蛍光灯を消す。エアコンを消す。三つのスイッチを順番に切る。

 最後にドアの鍵を回す。右に四十五度。

 航平と同じ角度だった。

第四章 89.7%

 二〇二四年十一月。

 奏人の買取店は五年目に入っていた。月商は六十万円前後。説明会で水上が語った「二百万から三百万」の三分の一にも届かないまま、五年間が終わろうとしていた。

 ある夜、奏人は柊書房の事務スペースで、パソコンに向かっていた。帳簿をつけ終えた後、ふと思い立って検索した。「ゴールドクレスト 有価証券報告書」。

 四年前にやらなかったことを、やった。

 指がキーボードの上で一瞬止まった。Enterキーを押す前に、奏人は自分の指を見た。電卓のキーを打つための指。何も査定できない指。

 Enterを押した。

 金融庁のEDINETからPDFをダウンロードする。過去五年分。奏人はExcelを開いた。久しぶりだった。開店二年目の途中から、Excelを開く回数が減っていた。見ても何も変わらない数字を見るのが苦しかったからだ。

 しかしこのExcelは違った。自分の店の数字ではない。会社全体の数字だった。

 店舗数の推移を年度別に打ち込んでいく。開業数。閉店数。純増減。

 古書店の帳簿を読むように、一行一行を追った。

 数字が並んでいく。

 二〇一九年。開業百四十二店。閉店九十八店。純増四十四。
 二〇二〇年。開業百六十八店。閉店百十二店。純増五十六。
 二〇二一年。開業二百一店。閉店百三十八店。純増六十三。
 二〇二二年。開業百五十六店。閉店百七十二店。純減十六。
 二〇二三年。開業百二十三店。閉店百四十五店。純減二十二。

 奏人は二〇二二年の行で手を止めた。

 純減。開業より閉店が多い。しかしゴールドクレストのホームページには「継続率89.7%」と書いてある。四年前に見た数字。ノートに書いた数字。

 累計を計算した。

 創業以来の累計開業店舗。一千六百。
 現存店舗。七百五十八。
 差し引き。

 八百四十二店が消えている。

 奏人は電卓を取った。手が勝手に動いた。

 八百四十二割る一千六百。

 0.52625。

 閉店率、52.6%。

 奏人は電卓の液晶を見つめた。52.6。その数字が目に入ったとき、視界の端が少しだけ暗くなった。蛍光灯が暗くなったのかと思って、天井を見た。蛍光灯は変わっていない。暗くなったのは視界の方だった。

 89.7と52.6。その差、37.1ポイント。

 同じ会社の、同じ店舗について語った数字である。

 89.7%は「単年度の継続率」だった。今年の初めにいた店舗のうち、年末にまだいる店舗の割合。毎年10%が消えても、新しい店が入れば数は維持できる。しかし毎年6〜7%ずつ消えていけば、十年で半分以上がいなくなる。それが52.6%の正体だった。

 八百四十二。

 八百四十二人の人間が、自分と同じ画面を見た。同じ動画を見た。同じ説明会に行った。同じ数字をメモした。同じ笑い方を見て、安心した。

 そして、ここにいない。

 奏人はタバコをやめて三年になるのに、灰皿を探している自分に気づいた。机の上に灰皿はない。三年前に捨てた。捨てたことを、指は覚えていなかった。

 もう一つ気づいたことがあった。

 ゴールドクレストのオーナー向けサイトには、月次のランキングと「個別コメント」が配信されている。本部のスーパーバイザーが各店舗に向けて書くコメント。

 奏人はコメントの履歴を全て開いた。最も古いものから順に。

 スクロールする。一ヶ月目。二ヶ月目。三ヶ月目。

 同じだった。

 四ヶ月目。同じ。五ヶ月目。同じ。

 奏人はスクロールを止めなかった。六ヶ月。十二ヶ月。二十四ヶ月。三十六ヶ月。

 九十三ヶ月分のコメントが保存されていた。奏人は全部開いた。

 一字一句、同じだった。

 八年間。九十三ヶ月。毎月届く「個別コメント」が、テンプレートのコピー&ペーストだった。宛名だけが違う。「引き続き、お客様とのコミュニケーションを大切に」。九十三回。九十三回、同じ文面が、六百四十二の店舗に送られていた。

 個別サポートの実態は、ゼロだった。

 奏人はパソコンの画面から目を離した。事務スペースの壁に、航平の手書きの仕入れメモが貼ってある。常連客の名前。好みのジャンル。前回の来店日。一人ずつ、違う字で、違う内容が書いてある。

 九十三ヶ月間、同じ文面を送り続けた会社の向かいに、三十年間、一人ずつ違うメモを書き続けた男がいる。

 奏人は何も言わなかった。パソコンを閉じた。

 翌日から、奏人は撤退のメールを下書きし始めた。宛先は水上隆久。件名は「ご契約についてのご相談」。

 丁寧な文面を書いた。四年間の感謝を述べ、経営状況を説明し、契約の途中だが撤退したい旨を伝える内容だった。契約期間は五年。あと一年残っている。

 下書きフォルダに保存した。翌日、読み返した。修正した。また保存した。三日目、また読み返した。

 送信ボタンに指を置いた。

 止まった。

 まだ航平に話していない。

 奏人はメールを下書きフォルダに保存して、パソコンを閉じた。

 四日目の夜、航平に話す前に、メールを送った。もう待てなかった。

第五章 テンプレート

 返事は翌日に来た。

 奏人が撤退の意思を伝えるメールを送ったのは、土曜日の夜だった。

 日曜日の朝。六時十二分。

 スマートフォンが鳴った。枕元に置いてあった。バイブレーションの音が枕を通じて頬骨に伝わった。奏人は薄い眠りの中にいた。目が開いた。天井が白い。カーテンの隙間から朝の光が線になって壁を這っている。六時十二分。日曜日。この時間にメールが来る理由がわからなかった。

 画面を見た。

 送信元は水上ではなかった。ゴールドクレスト本部管理部。件名は「解約に伴うご案内」。

 奏人はベッドの上で体を起こした。枕が湿っていた。寝汗だったのか、それとも夜の間に口を開けて寝ていたのか。背中に冷たい空気が当たった。エアコンは切れている。十一月の朝。

 メールを開いた。

 本文の冒頭に、こう書かれていた。

 ——解約にあたり、休店同意金180万円をお支払いいただきます。

 奏人は画面を二度見た。

 休店同意金。

 聞いたことのない言葉だった。加盟時の説明にも、契約書にも、この言葉は出てこなかった。奏人はスマートフォンを持ったまま、ベッドから降りた。裸足で廊下を歩いた。フローリングが冷たい。書棚から契約書のファイルを引っ張り出した。

 全四十五条。一条ずつ読み返した。

 指が紙の上を滑っていく。第一条。第二条。第三条。

 「休店同意金」という言葉は、どこにも書かれていなかった。

 しかし、別のことは書かれていた。契約期間、五年。中途解約の場合の違約金、二百五十万円。百八十万円の休店同意金は、その二百五十万円の「代わり」として提示されていた。契約書にない金額を、契約書の違約金を盾にして要求している。

 メールを読み進める。

 休店同意金は四年前、加盟初年度に一度提示されたことがあった。あのときは六十万円だった。奏人はそれを選ばなかった。引き継ぎを希望した。

 今、その金額は百八十万円になっていた。四年間で三倍。

 分割払いの場合、金利は三段階で設定されていた。六%、九%、十二%。連帯保証人が必要。

 回答期限は五日以内。

 奏人はメールの末尾まで読んだ。

 ——休店の同意がない場合、このまま解約となります。
 →二百五十万円の一括請求
 →財産の差押
 →問題は放置するほど大きくなり、やがてあなた自身に返ってきます。

 奏人はスマートフォンを置いた。

 指先が震えていた。それだけではなかった。手首。肘のあたり。細かい震えが腕を伝っていく。テーブルに手を置いてみた。震えはテーブルに移っただけだった。テーブルの上でスマートフォンが微かに振動しているように見えた。

 台所に行った。蛇口をひねった。水が出た。コップを取ろうとした。コップが棚の上にあった。手を伸ばした。指がコップの縁に触れた。コップは倒れなかったが、指が滑った。もう一度手を伸ばした。今度はしっかり掴めた。

 コップに水を入れた。飲もうとした。口元にコップを持っていくとき、水面が揺れていた。自分の手が揺らしている。

 飲めなかった。

 コップをテーブルに置いた。水面がまだ揺れている。しばらく見ていた。揺れが収まるまで。収まったのか、自分の目が慣れたのか、どちらかわからなかった。

 もう一度メールを開いた。

 末尾の一文を読み返した。

 ——問題は放置するほど大きくなり、やがてあなた自身に返ってきます。

 日曜日の朝だった。六時二十七分。カーテンの隙間の光が、少しだけ明るくなっていた。

 その日、奏人は外に出なかった。

 ベッドに戻った。横になった。眠れなかった。天井を見ていた。天井の染みを数えた。三つ。いつからあったのかわからない。涼子がいた頃からあったのか、出ていった後にできたのか。

 午後になって、空腹を感じた。冷蔵庫を開けた。卵が二個と、賞味期限が二日過ぎた牛乳。卵焼きを作った。フライパンの油が跳ねて、手の甲に小さな痛みが走った。その痛みが、朝からずっと感じていなかった感覚を呼び戻した。

 卵焼きを食べた。味はしなかった。

 夕方、もう一度メールを読んだ。三度目。今度は声に出して読んだ。誰もいない部屋で、自分の声がメールの文面を読み上げた。

 「休店同意金百八十万円」

 声に出すと、百八十万円という金額が部屋の空気に溶けて、壁に染み込んでいくように感じた。百八十万円。奏人の年収の三分の一。柊書房の四ヶ月分の売上。

 契約書に書いてない金額が、日曜日の朝六時十二分に、メール一通で届く。

 二〇二六年三月。

 奏人はチャットグループの画面を見つめていた。

 グループには全国の現役・元加盟店オーナーが三十人ほど参加している。情報交換の場だった。匿名もいれば、実名もいる。

 北海道の宮田という男が、メッセージを投稿した。

 「みなさん、こういうメールが来た人いますか?」

 宮田がスクリーンショットを貼った。

 奏人は画面を凝視した。

 自分が受け取ったメールと同じだった。

 金利六%、九%、十二%。分割の場合は連帯保証人。回答期限五日。末尾の文面。「問題は放置するほど大きくなり、やがてあなた自身に返ってきます」。一字一句、同じだった。日付と宛名だけが違う。

 テンプレートだった。

 チャットが動き始めた。「うちにも来ました」「同じです」「金利まで一緒ですね」。次々に、同じ文面のスクリーンショットが貼られていく。三通、四通、五通。

 奏人は椅子の背にもたれた。

 自分だけだと思っていた。

 あの日曜日の朝。六時十二分。ベッドの上で手が震えたとき、自分だけがこの文面を受け取ったと思っていた。

 五人いた。少なくとも五人が、同じ文面を受け取っていた。同じ時刻かどうかはわからない。しかし同じ文面を読み、同じ言葉に打たれ、同じ震えを感じたかもしれない人間が、五人いた。

 宮田が追加のメッセージを投稿した。

 「水上さんから面白いメールが来ましたよ。『どなたかに知恵をつけてもらっているようですが……あまり筋のいい助言とは思えませんね』だそうです」

 奏人はスマートフォンを置いた。

 窓の外で、カラスが鳴いた。

第六章 凍結

 二〇二五年五月二十三日。柊書房。午後三時。

 奏人がレジの裏で帳簿をつけていると、航平が封筒を持ってきた。茶色い封筒。東京地方裁判所の名前が印刷されている。

 「裁判所から」

 航平はそれだけ言って、封筒を渡した。奏人を見る目が、一瞬だけ変わった。何に変わったのか、奏人にはわからなかった。

 奏人は封筒を開けた。

 「仮差押決定」

 その四文字を見たとき、奏人の視界が狭くなった。文字は読めている。意味もわかっている。仮差押。債権者が債務者の財産を凍結する手続き。知識としては知っている。しかし、その知識と目の前の紙が結びつかなかった。

 決定書を読む。申立人はゴールドクレスト株式会社。被保全債権は二百五十万円。対象は奏人名義の銀行口座。

 奏人はすぐに銀行に電話した。声は出た。普通の声だった。自分でも驚くほど普通の声で、口座の状況を確認した。

 「お客様の口座は、本日付で仮差押の通知を受けております。現在の残高は凍結状態です」

 「残高はいくらですか」

 「十八万七千円です」

 二百五十万円の被保全債権に対して、凍結されたのは十八万七千円。7.5%。

 電話を切った。航平がカウンターの向こうに立っていた。常連客のリクエストメモを手に持ったまま、動かずに立っていた。

 「大丈夫か」

 「大丈夫だ」

 大丈夫だった。十八万七千円が凍結されただけだ。致命的な金額ではない。

 その時点では、そう思っていた。

 翌日、奏人は銀行の支店に出向いた。

 応接室に通された。革張りの椅子。テーブルの上にパンフレットが扇状に並んでいる。住宅ローンと投資信託と、子供の教育資金。どれも奏人には関係のないパンフレットだった。

 担当者は三十代の男性で、名刺を差し出してから、申し訳なさそうな顔で座った。

 「仮差押の仕組みについて、ご説明いたします」

 担当者は丁寧に、しかし正確に説明した。仮差押決定が裁判所から銀行に送達されると、銀行は対象口座の残高を凍結する義務がある。預金者本人であっても引き出せない。解除には裁判所の決定が必要になる。

 奏人は一つだけ聞いた。

 「銀行として、何かできることはありますか」

 担当者は一瞬だけ目を伏せた。それからまっすぐ奏人を見て、首を振った。

 「仮差押という手続きに対して、銀行は何のアクションも起こせません。粛々と従うのみです」

 粛々。

 担当者は「粛々」という言葉を使った後、少しだけ表情を崩した。申し訳なさではなかった。それに近い何かだったが、もう少し個人的な感情だった。担当者も一人の人間で、目の前の預金者に何もしてやれないということを、業務として伝えていた。

 奏人は担当者に礼を言って、応接室を出た。銀行のロビーを横切るとき、窓口に並んでいる老人と目が合った。老人は奏人に会釈した。奏人は会釈を返した。それだけのことだった。

 ガラスの自動ドアを出ると、五月の日差しが目に刺さった。

 自宅に戻った奏人は、パソコンを開いた。ゴールドクレストの直近の有価証券報告書を確認する。もう慣れた作業だった。

 売上高、二百十億円。
 現金及び預金、二十三億円。
 被保全債権、二百五十万円。

 奏人は電卓を叩いた。二百五十万円は現金二十三億円の0.011%。

 凍結された十八万七千円は、0.0008%。

 二十三億円の現金を持つ上場企業が、十八万七千円を凍結している。

 奏人はこの数字を、何度も電卓で叩き直した。叩くたびに同じ数字が出る。何を確認しているのか、自分でもわからなかった。ただ、電卓を叩く指だけが動いていた。同じ数字を、何度も何度も。

 凍結された口座は、会社の運転資金口座だった。

 仕入れの支払い。光熱費。通信費。そして、スタッフの給与。柊買取には奏人のほかにパートが一人いた。週三日。時給千百五十円。月の給与は七万円前後。大きな金額ではない。しかしゼロにはできない。

 六月分の給与が払えなかった。口座が凍結されているから、振り込みができない。

 奏人は自分の個人口座から貸し付けた。貯金を崩して、会社に入れた。

 七月。同じことが起きた。また個人口座から貸し付けた。

 八月。また。

 貯金は三百五十万円あった。毎月七十万ずつ減っていった。給与だけではない。家賃。光熱費。仕入れ代。全てが個人口座から出ていく。

 九月。残高が百四十万になった。

 奏人は航平にこの事実を話していなかった。

 話せなかったのか、話さなかったのか、奏人自身にもよくわからなかった。ただ、朝、柊書房の扉を開けて航平の顔を見るたびに、喉の奥に何かが詰まった。航平はいつもと同じ顔で「おう」と言う。奏人もいつもと同じ顔で「おう」と返す。それだけのことが、日に日に重くなった。

 貯金の残高が百万を切った夜、奏人はベッドに横になって天井を見ていた。蛍光灯は消してある。カーテンの隙間から街灯の光が入ってくる。

 十八万七千円。

 あの金額が凍結されただけで、三百五十万の貯金が消えようとしている。

 0.0008%の凍結が、100%の生活を圧迫している。

 数字は合わない。どこかが間違っている。しかし間違っているのは数字ではなくて、数字の外側にある何かだった。

第七章 八月三十一日

 二〇二五年八月三十一日。深夜一時。

 柊書房。

 航平は一人で棚卸しをしていた。

 八月の最終日。毎月、月末に在庫を数える。開店からずっとそうしてきた。三十年間、一度も休んだことがない。元日も数えた。台風の夜も数えた。父が死んだ翌日も、数えた。

 棚の端から順に、一冊ずつ確認していく。背表紙を見る。棚の位置を確認する。ノートに書く。バーコードリーダーは使わない。手で触って、目で見て、ノートに書く。

 それが航平のやり方だった。

 棚が十二本ある。一本あたり平均三百二十冊。最上段は脚立を使う。最下段は膝をつく。一冊あたり五秒。全部で五時間半かかる。

 航平は脚立に登った。最上段の左端から数え始める。

 一冊目。夏目漱石全集の第三巻。先月と同じ位置にある。売れていない。航平は背表紙に指先を当てた。布装の、少しざらつく感触。先月も同じ場所で同じ感触を確認した。先月も、その前の月も、その前の年も。

 二冊目。正岡子規の随筆集。これも先月と同じだ。

 三冊目。カフカの短編集。昭和三十年代の翻訳で、表紙の絵が妙に明るい。航平はこの本が好きだった。売れなくていいと思っていた。表紙の女の子がカフカの小説とまるで関係ない笑顔をしていて、それが良かった。

 四冊目。五冊目。

 深夜の古書店は静かだった。通りの音も聞こえない。エアコンの室外機が、時々思い出したように回った。航平の指先が背表紙を触るかすかな音と、ノートにペンが走る音。それだけが、店の中にあった。

 午前二時を過ぎた。六本目の棚に取りかかった。

 このあたりから、航平はいつも少し眠くなる。膝が痛くなるのも、このあたりからだ。五十歳を過ぎてから、脚立の昇り降りが少しだけきつくなった。少しだけ。まだ「少し」で済んでいる。

 七本目の棚に、奏人が先月入れた本がある。経営書。古書店には似合わない。しかし仕入れ先で安く手に入ったから、と奏人が言った。航平は何も言わなかった。棚に入れた。売れていない。

 午前三時。九本目。

 航平の手が止まった。一冊の文庫本がなかった。先月あったはずの場所に、隙間がある。売れたのだ。航平は記憶を辿った。いつ売れたか。誰が買ったか。

 八月十七日。水曜日。午後二時頃。五十代の男性。初めての客だった。店の奥まで入ってきて、しばらく棚を見ていた。それからこの一冊を手に取った。カバーは外して持っている。裏表紙を確認して、レジに持ってきた。千二百円。

 航平は覚えている。覚えているが、ノートには書いていない。客が何を買ったかは帳簿に記録があるが、客がどんな顔で本を選んだかは、航平の記憶にしかない。

 午前四時半。十二本目の最下段。最後の一冊を確認した。

 航平はノートの数字を合計した。

 三千八百四十七冊。前月比プラス十二冊。

 十二冊。航平はその十二冊を覚えている。いつ仕入れたか。いくらで買ったか。どの棚の、どの位置に入れたか。全部覚えている。

 航平はスマートフォンを取り出して、奏人にLINEを送った。

 「棚卸し終わった。在庫3,847冊、前月比+12冊。地道だけど増えてる」

 送信して、スマートフォンをポケットにしまった。奏人は寝ているだろう。返事は明日でいい。

 航平は柊書房の照明を消した。鍵を回して、シャッターを下ろした。深夜五時前の神保町を歩いて、自宅に向かった。

 歩きながら、弟のことを考えていた。

 最近の奏人は、顔が薄くなった。表情がなくなった、というのとは違う。表情はある。「おう」と言うときの顔、帳簿をつけるときの顔、客に応対するときの顔。どれもいつも通りだ。しかし、いつも通りの顔の向こう側に、何かが透けて見える。何が透けているのかはわからない。

 航平は弟に聞いていない。「大丈夫か」と一度だけ聞いた。「大丈夫だ」と返ってきた。それ以上は聞かなかった。

 九月一日。朝十時。

 奏人は航平を呼び出した。柊書房の近くの喫茶店。窓際の席。コーヒーを二つ注文した。

 航平が来た。いつもの顔だった。Tシャツにジーンズ。日に焼けた腕。本の匂いがする男。

 コーヒーが来た。航平は一口飲んで、奏人を見た。

 「で、何だ」

 奏人は言った。

 「兄貴、スタッフの給料、七十万足りない。来月には用意するから、一旦立て替えてもらえないか」

 航平は黙った。

 三秒か、五秒か。喫茶店のBGMが、やけにはっきり聞こえた。ジャズだった。ピアノの音が高い。

 「七十万?」

 航平はカップを置いた。

 「書房は毎月黒字だろ。何に使ったんだ」

 奏人はテーブルの上のコーヒーカップを見ていた。カップの縁に唇の跡が残っている。自分の唇の跡だった。

 「……俺の貯金は全部会社に貸してる。今三百五十万ぐらい」

 「三百五十万?」

 航平は奏人を見た。奏人は航平の目を見られなかった。

 それから、奏人は話した。

 口座が凍結されていること。六月から三ヶ月間、自分の貯金を崩して会社に貸し付けてきたこと。ゴールドクレストが二百五十万円の債権を主張して仮差押をかけてきたこと。凍結された金額は十八万七千円だったこと。

 航平は黙って聞いた。コーヒーカップに触れなかった。

 全部聞き終えてから、一つだけ聞いた。

 「それ、いつ解けるんだ」

 奏人は答えられなかった。

 航平はコーヒーを飲み干した。冷めていたはずだ。一気に飲んだ。

 「七十万は出す。条件はつけない。書面も要らない」

 それだけ言った。

 嫌気がさした人間は、七十万円を立て替えない。

 その夜。

 航平は柊書房の事務スペースにいた。奏人は帰った後だった。店は閉まっている。蛍光灯の下で、航平は机に向かっていた。

 退職届を書いていた。

 便箋に万年筆で。航平は字がうまい。古書店の値札も、全部航平が手書きしていた。赤羽さんの本に「1,200円」とつけたのも、この手だった。

 一行目を書いた。「退職届」。万年筆のインクが、最後の画でわずかに太くなった。力が入ったのか、入らなかったのか、航平にもわからなかった。

 なぜ退職届を書いているのか。

 七十万円は出すと言った。出す。金はある。しかし航平は、弟の顔を見て理解した。あの喫茶店で、奏人がコーヒーカップを見つめていたとき、航平は弟の顔の薄さの正体を見た。

 奏人は古書店を守ろうとしている。航平の居場所を守ろうとしている。そのために買取店を始め、そのために貯金を崩し、そのために黙っていた。

 航平がいる限り、奏人は古書店を閉められない。

 航平は退職届を書き終えた。封筒に入れた。机の上に置いた。

 そして、鍵を出した。

 柊書房の鍵。

 三十年間、毎日触れてきた鍵だった。

 指先が覚えている。

 鍵穴に差し込む角度。回すときの微かな抵抗。噛み合ったときの、あの小さな手応え。朝、シャッターを上げるとき。夜、店を閉めるとき。何千回、この鍵を回したか。

 航平は鍵を机の上に置いた。退職届の横に。

 金属が木に触れる、小さな音がした。

 航平は立ち上がった。事務スペースを見回した。自分の机。奏人の机。壁に貼った仕入れメモ。常連客の名前がびっしり書いてある。赤羽さん。伊藤さん。山田さん。一人ずつ、違う字で、違う好みが書いてある。

 蛍光灯を消した。裏口から出た。

 鍵はかけなかった。鍵は、机の上にある。

 航平は鍵を置いた。

 奏人はそれを見ていなかった。

第八章 打って引く

 二〇二五年九月。

 奏人の弁護士から連絡があった。ゴールドクレスト側が和解案を提示してきた。

 弁護士事務所。都内のビルの六階。窓の外に神保町の古書店街が見える。この事務所に通うのは三回目だった。最初に来たのは五月。仮差押の決定書を持って。

 弁護士は書類をテーブルに広げた。

 「解決金七十万円。条件が三つあります」

 一つ目。口外禁止。この件に関して一切を口外しない。
 二つ目。清算条項。これ以後、一切の請求を行わない。
 三つ目。インターネット上に公開した記事を全て取り下げる。

 奏人は三つの条件を見た。

 七十万円。被保全債権の二百五十万円に対して、28%。仮差押で凍結した十八万七千円に対して、3.7倍。

 数字を見た後で、条件を見た。

 口外禁止。

 奏人はその二文字を見たとき、椅子の背もたれを握りしめていた。指の関節が白くなっていた。

 「断ります」

 弁護士は頷いた。何も言わなかった。

 九月八日。

 和解を断った十日後、ゴールドクレストが仮差押を取り下げた。

 弁護士から電話があった。奏人は柊買取のカウンターに座っていた。客はいなかった。午後三時。

 電話を切った後、最初に感じたのは安堵ではなかった。不審だった。

 五月に口座を凍結した時点で、残高が十八万七千円しかないことは分かっていたはずだ。二百五十万円の債権を保全する意味がないことは、初日から明らかだった。

 なぜ三ヶ月間も維持したのか。

 そしてなぜ、和解を断った十日後に取り下げたのか。

 奏人はノートを開いた。時系列を書き出す。

 五月二十三日。仮差押決定。口座残高十八万七千円。
 五月~八月。三ヶ月間維持。奏人は個人貯金を三百五十万円切り崩す。
 八月二十九日。和解提示。七十万円。口外禁止。
 八月二十九日。和解拒否。
 九月八日。仮差押取下げ。

 奏人はペンを止めた。

 取り下げの理由が「保全の必要性がなくなった」なら、それは五月の時点で成立している。十八万円で二百五十万円は保全できない。三ヶ月間放置した理由は、保全以外にある。

 では何のために。

 ノートの余白に、三つの点を打った。仮差押。和解提示。取下げ。三つの点を線で結ぶと、一つの形が見える。

 圧力をかけて、金を出させて、黙らせる。

 奏人はその形を見つめた。まだ確信ではなかった。しかしノートの上の三つの点は、別の解釈を許さなかった。

 十月。

 奏人はYouTubeに動画を投稿した。

 自分の経験を語る動画だった。ゴールドクレストの名前は出していない。しかし数字は出した。継続率と閉店率の乖離。テンプレートメール。仮差押の不条理。事実だけを、淡々と。カメラに向かって話す奏人の声は、平坦だった。意図的に平坦にした。感情を入れると、事実が感情に見える。事実は事実として、数字は数字として、そのまま置いた。

 十日後、動画が消えた。

 著作権侵害の申し立て。ゴールドクレスト側が、動画の中で使用された資料の画像が著作権を侵害しているとして、削除を要求した。

 奏人は異議を申し立てた。プラットフォームの規定に従い、相手方は十営業日以内に法的措置の証拠を提出する必要がある。

 十営業日が過ぎた。証拠は提出されなかった。動画は復元された。

 打った。しかし引いた。

 同じ月。奏人は公開質問状を送った。

 内容証明郵便で四通。宛先は、ゴールドクレストの代表取締役、監査等委員会、取締役会議長、そして顧問弁護士の濱口。全八項目の質問。継続率の算出方法。休店同意金の法的根拠。仮差押の目的。テンプレートメールの存在。

 四通すべてが配達された。配達証明がある。

 回答は来なかった。一通も。一週間。二週間。一ヶ月。

 奏人は毎日、ポストを確認した。柊書房の帰りに、マンションのエントランスでポストを開ける。チラシと請求書。チラシと請求書。チラシと請求書。

 回答は来なかった。

 十二月。

 ゴールドクレストのオーナー向けランキング配信が停止された。奏人の店舗だけ。他の加盟店には通常通り配信されている。

 一月。奏人の買取店の契約が満了した。

 奏人はノートに時系列の続きを書いた。

 仮差押。→取り下げ。
 動画。→削除要求。→復元(証拠を出せず)。
 公開質問。→全面不回答。
 ランキング。→配信停止。

 四つの出来事を上から順に読み返した。どれも同じ形をしている。

 打つ。引く。打つ。引く。

 圧力をかけて、相手が動かなければ引く。しかし別の手を打つ。引いた後も、形を変えて圧力をかけ続ける。

 窓の外を見た。神保町の夜。柊書房の灯りはもう見えない。航平が去った後、営業時間を短くした。奏人が一人で開けて、一人で閉める。

 ノートの四行を見つめた。四つの行動が、一つの意志で動いている。

 個人の判断ではない、と奏人は思った。まだ証拠はない。しかし、四つの行動が同じリズムで打たれている。打つ。引く。打つ。引く。まるでテンプレートのように。

第九章 誇り

 二〇二六年四月。深夜二時。

 奏人は眠れない夜に、YouTubeを見る癖がついていた。

 裁判の資料でも、ゴールドクレストの分析でもない。関係のない動画を見る。料理動画。旅行記。古い映画の予告編。深夜に見るものは何でもよかった。眠るための儀式のようなものだった。

 その夜、おすすめ欄に水上隆久の顔があった。

 ビジネス系のインタビュー番組だった。三年前の動画。再生回数は八千回。サムネイルに水上の笑顔が映っている。あの笑い方だった。

 奏人は一瞬だけ迷って、再生ボタンを押した。

 部屋が暗かった。パソコンの画面の光だけが顔を照らしている。四年前と同じだった。あのワンルームマンションの深夜と同じだった。違うのは、涼子のカレンダーがないことと、空き缶がないことだった。

 水上は上機嫌だった。

 インタビュアーの質問に、身振り手振りで答えている。会社の成長戦略。FC事業の展望。株価。水上は数字をよどみなく語った。画面の中の男は生き生きとしていた。カメラに向かって語りかけるとき、目が輝いていた。この男は本当に自分の仕事を愛しているのだ、と思わせる何かがあった。

 話題が経歴に移った。

 「もともとは警察官だったんですよね」

 水上が笑った。あの笑い方だった。人を安心させる笑い方。

 「ええ。二十三歳で警視庁に入りました。若かったですね」

 「どうして辞められたんですか」

 「家庭の事情です。でも、あの経験がなければ、今の自分はいません」

 水上は少し前に身を乗り出した。椅子の背にもたれていた体を、起こした。

 「警察学校で最初に教わったのは、法律の条文じゃないんです。人の目を見ること。嘘をついている人間は、目が泳ぐ。本当のことを言っている人間は、まっすぐこちらを見る」

 一拍おいて、続けた。

 「逮捕の手続きも学びました。身体の拘束がどれだけ重い意味を持つか。人の自由を奪うということが、どれだけの責任を伴うか。あの半年間で叩き込まれました」

 水上は笑った。

 「だから今でも、査定をするときは同じ気持ちです。相手の人生を値踏みしている。その重さを知っているかどうかで、仕事の質が変わる」

 インタビュアーが感心した顔をした。

 奏人は画面を見ていた。

 見ていたが、途中から水上の声が遠くなった。言葉の意味は追えている。しかし、言葉と声の間に隙間ができた。画面の中の水上が語っている言葉と、奏人の頭の中で鳴っている別の言葉が、重なった。

 ——逮捕に至ることもあります。

 テンプレートメールの一文。休店同意金のメールの末尾。財産の差押の次に書いてあった文。

 ——法律上、財産を隠した場合は逮捕に至ることもあります。

 奏人は動画を一時停止した。

 画面の中で水上が笑っている。誇らしげな顔で。「逮捕の重さを知っている」と語った、その口で。

 逮捕。

 民事の債務不履行に、刑事罰の「逮捕」はない。解約通知の時点では判決も調停調書もなく、債務名義は存在しない。法的に、逮捕の根拠はどこにもない。

 この男は知っている。

 警察官だった。三年で辞めたとしても、逮捕という言葉の重さを、職業として教え込まれた人間だ。

 知っていて、テンプレートに入れた。

 奏人はゴールドクレストのホームページを開いた。会社概要。役員一覧。

 代表取締役 水上隆久。

 経歴欄に、一行あった。

 一九九五年四月 警視庁入庁
 一九九八年三月 同退職

 三年。

 奏人はテンプレートメールを開いた。あの日曜の朝に届いたメール。フォルダの中に、ずっと残してある。消せなかった。消す理由もなかった。

 末尾の一文まで、スクロールした。

 ——財産の差押(法律上、財産を隠した場合は逮捕に至ることもあります)

 この一文を書いた男は、警察官だった。

 「逮捕」という言葉が、民事の世界でどれだけ場違いかを、職業として知っていた。知っていて、テンプレートに入れた。知っていて、五人に——少なくとも五人に——送った。

 奏人はスマートフォンを置いた。

 台所に行った。コップを取った。蛇口をひねった。水がコップに溜まっていく音だけが、深夜の部屋に響いた。

 水は飲まなかった。

 コップの中の水を見ていた。蛍光灯が消えている台所で、窓から入る光がコップの水面にかすかに映っていた。水面は揺れていない。あの日曜日の朝とは違う。今、手は震えていなかった。

 震えていないことに、奏人は何かを感じた。感じたが、名前はつけなかった。

 翌日。奏人はチャットグループに一行だけ投稿した。

 「水上さんが元警察官だということ、ご存知でしたか。HPの役員一覧に書いてあります」

 しばらく誰も反応しなかった。

 二時間後、宮田が返信した。

 「……見ました」

 それだけだった。しかし「……」の三点に、何かが込められていた。

第十章 声

 その夜、グループが動き始めた。

 福岡の田代という男がメッセージを投稿した。田代は加盟四年目で自己破産していた。連日十八時間働き、体を壊し、それでも月商は五十万に届かなかった。グループでは寡黙な男で、いつも他人の投稿に「いいね」をつけるだけだった。テキストを打っているのを見たのは、奏人は初めてだった。

 その田代が、スクリーンショットを二枚貼った。

 一枚目は、水上から届いたメールの全文だった。

 奏人は画面をスクロールした。

 六つの選択肢が並んでいた。

 一、契約満了まで営業を続ける。
 二、新しいオーナーへの引き継ぎ。無償譲渡。
 三、休店。残期間の会費と休店同意金を支払う。
 四、休店のうえ、本部で直雇用。月給二十八万円。
 五、エリアを縮小して営業を継続する。
 六、解約。二百五十万円の一括請求。

 六番目の選択肢の末尾に、あの文面があった。

 ——逮捕に至ることもあります。

 選択肢は六つあるが、一と五は「何も変わらない」。二は「タダで店を手放す」。三と四は「金を払うか、安い給料で働く」。そして六は「逮捕」。

 出口は用意されている。しかしどの出口にも値札がついている。

 奏人がもう一度見たのは、選択肢ではなかった。

 二枚目のスクリーンショットだった。

 メールのヘッダー。CCの欄に、十二の名前が並んでいた。本部の社員。管理部。スーパーバイザー。

 その中に「稲葉」という名前があった。奏人はその名前を見たことがなかった。肩書には「取締役」と書いてあった。

 奏人はスマートフォンをテーブルに置いた。

 田代のメールは、奏人が受け取ったメールと同じテンプレートだった。宮田が受け取ったメールとも同じだった。

 違ったのは、田代のメールにはCCが残っていたことだ。

 テンプレートを送っていたのは、水上一人ではなかった。取締役を含む十二人が、全てのメールを共有していた。

 個人の暴走ではなかった。

 田代が追加のメッセージを投稿した。

 「これ、送っていいですか。もう怖くないです」

 奏人はその一文を読んで、画面から目を離した。

 「もう怖くないです」。田代は自己破産した。失うものはもうない。そして失うものがなくなった人間が、初めて声を上げた。

 グループが動いた。

 大阪の元オーナーが「うちも同じです」と書いた。添付されたのはメールではなく、請求書のPDFだった。項目名が違うだけで、金額の組み立て方は同じだった。

 名古屋の元オーナーが「文面一緒です」と書いた。契約満了前に送られた通知書の写真だった。スマートフォンで撮ったものらしく、紙の端に畳の目が映っていた。

 仙台の元オーナーは、説明会の音声を文字起こししたテキストを貼った。水上の言葉が、そこにもあった。

 「真面目にやっていただける方には、一切関係のない話です」

 広島の元オーナーは、契約書の別紙を送った。別紙には「任意」と書かれていた。だがその下に、未提出の場合はサポートの対象外になると書いてあった。

 形式は違った。メール。請求書。通知書。文字起こし。別紙。

 しかし、形は同じだった。

 六つの選択肢。同じ金利。同じ期限。同じ文言。出口があるように見せて、どの出口にも値札がついている。

 宮田が書いた。

 「これ、全部合わせたら何通になりますか」

 奏人は数えた。

 自分のを含めて、八通。

 八通のメール。八人の加盟店。送信日はそれぞれ異なる。しかし本文は一字一句同じだった。

 正確には、メールだけではなかった。PDF。写真。文字起こし。別紙。証拠の形はばらばらだった。

 ばらばらなのに、同じ方向を向いていた。

 奏人はしばらく何もしなかった。

 ノートを開いた。

 名前を書いた。田代。宮田。大阪の元オーナー。名古屋。仙台。広島。

 次に、地域を書いた。

 その横に、形式を書いた。メール。請求書。通知書。文字起こし。別紙。

 さらに横に、日付を書いた。

 最後に、共通する文言を書いた。

 書き終えてから、奏人はノートを見た。

 数字ではなかった。

 いつもなら、数字を見る。月商。継続率。閉店率。請求額。凍結額。奏人は数字の人間だった。数字なら読める。数字なら信じられる。

 しかしノートに並んでいたのは、数字ではなかった。

 声だった。

 田代の声。宮田の声。名前を知らない人間の声。文字になった声。PDFになった声。ヘッダーに残った声。畳の上で撮られた通知書の端に、かろうじて写り込んだ生活の声。

 声は、一つでは弱い。

 だが八つ並ぶと、形になる。

 三日後の夜、奏人は机に向かった。

 便箋を出した。万年筆を取った。航平の万年筆ではない。自分のものだ。安い万年筆。インクが時々かすれる。しかし奏人はこの万年筆が気に入っていた。かすれるところが気に入っていた。完璧な線を引く道具ではなく、時々途切れる線を引く道具だった。

 一行目を書いた。

 「告訴状」

 二行目。

 「罪名 脅迫罪」

 書き進めた。夜が更けた。窓の外に音はなかった。万年筆が紙の上を走る音だけが、部屋の中にあった。インクがかすれたとき、奏人はペン先を紙から離して、少し待った。インクが下りてくるのを待って、また書き始めた。

 告訴状の中に、数字を書いた。累計開業一千六百店。現存七百五十八店。消えた八百四十二店。テンプレートメール八通。CC十二名。うち取締役一名。

 数字の向こうに、人間がいる。田代がいる。宮田がいる。大阪の元オーナーがいる。名前を知らない人間がいる。

 奏人は書きながら、途中で一度だけ手を止めた。

 これは勝つための文書ではない、と思った。

 勝つかどうかはわからない。動くかどうかもわからない。誰かが読んでくれるかどうかもわからない。窓口で止まるかもしれない。引き出しの奥に入れられるかもしれない。紙の束の一枚として、番号だけを振られるかもしれない。

 それでも、机の上に置いたままにしておくよりは遠くへ行く。

 民事の封筒の中だけに入れておくよりは、別の棚に置かれる。

 奏人はそう思って、また書き始めた。

 書き終えた。封筒に入れた。封をした。鞄に入れた。

 鞄は玄関の横にある。奏人は鞄を見た。

 台所に行った。さっきの水がまだコップに残っていた。飲んだ。ぬるかった。

 翌朝、奏人は警察署の受付で番号札を受け取った。

 待合の椅子は硬かった。壁にポスターが貼ってある。自転車盗難防止。特殊詐欺注意。落とし物の案内。どれも明るい色で、どこか現実味がなかった。

 奏人の鞄の中には、封筒が入っている。

 番号が呼ばれた。

 カウンターの向こうにいた若い職員が、封筒を受け取った。中身をその場で読まなかった。ただ、奏人の名前と連絡先を確認し、別の紙を一枚差し出した。

 奏人は必要事項を書いた。

 ボールペンの先が、紙の上で滑った。昨夜の万年筆とは違う線だった。均一で、濃くて、途切れない線。

 「担当から連絡する場合があります」

 職員はそう言った。する、ではなかった。する場合があります。

 奏人は頷いた。

 署を出ると、午前十時の光があった。神保町の夜とは違う光だった。自分が何かを前に進めたのかどうか、奏人にはわからなかった。

 ただ、封筒はもう鞄の中になかった。

 同じ週。

 宮田から電話があった。

 「出してきました」

 「どこに」

 「公正取引委員会です。仕入れ先の不当な指定について」

 奏人は黙って聞いた。

 「品質管理の名目で、本部の関連会社からしか仕入れができない。しかし品質基準なんてものは、どこにも存在しない。調べました」

 宮田の声は落ち着いていた。北海道の訛りが少しだけ残っている。

 「柊さん。一人じゃ動かないかもしれません」

 宮田はそこで一度、息を吸った。

 「でも、一人ずつ別の窓口に出せば、どこかには残ります。残れば、あとから誰かが見られます」

 奏人は言った。

 「ありがとう」

 それだけだった。

 電話を切った後、奏人は窓の外を見た。四月の夜だった。神保町の通りに、誰もいなかった。しかし電話の向こうに、北海道にいる男がいた。公正取引委員会に一人で出向いた男がいた。

 一人ではない。

 そのことの重さが、胸の奥に沈んでいった。

 その夜、グループに田代の投稿があった。

 「これ、記録になりますか」

 短い一文だった。添付はなかった。スクリーンショットもなかった。ただ文字だけが、画面の上に置かれていた。

 奏人はしばらく見ていた。

 それから返信した。

 「なります」

 送信ボタンを押した。

 画面に、既読の数字が一つずつ増えていった。

第十一章 ブーメラン

 「柊さんですか。『ウィークリー・ジャパン』の黒崎と申します」

 電話は五月の初めにかかってきた。女性の声。低くて、落ち着いている。

 黒崎美咲。経済誌『ウィークリー・ジャパン』の記者。四十二歳。FC業界の特集記事を準備していると言った。

 「継続率の問題について、データをお持ちだと聞きました」

 奏人は警戒した。「どこで聞いたんですか」

 「チャットグループの方から。名前は言えませんが」

 奏人は少し考えてから、会うことにした。喫茶店で。神保町ではなく、神田の駅前のチェーン店を選んだ。

 黒崎は小柄な女性だった。黒いジャケット。ショートカット。爪は短く切ってある。ノートパソコンとICレコーダーをテーブルに置いた。

 「録音してもいいですか」

 「オフレコで。名前は出さない条件で」

 「もちろん」

 奏人はExcelのファイルを見せた。有価証券報告書から抽出した店舗数の推移。累計開業一千六百店。現存七百五十八店。閉店率52.6%。対して、公式発表の継続率89.7%。

 黒崎はデータを見て、何も言わなかった。表情も変わらなかった。しばらく数字を追ってから、顔を上げた。

 「知ってました」

 奏人は少し驚いた。

 「二年前から追ってます。ただ、裏が取れなかった。元オーナーに話を聞いても、みなさん口外禁止の条項がある。和解条件に入っているんです」

 口外禁止。あの和解案にも入っていた。

 黒崎はICレコーダーのランプを見た。赤い点滅。録音中。自分の声も入っている。それを気にしている様子はなかった。

 「口外禁止は、便利な仕組みです」

 声が変わった。記者の声ではなかった。低いまま、硬くなった。

 「黙っている人間は、いなかったことになる。いなかったことにされた人間は、もう声を上げられない。数字からも消える。最初からいなかったことになるんです」

 奏人は黒崎を見た。黒崎はテーブルの上のICレコーダーを見ていた。赤いランプ。点滅。点滅。

 何かがある、と奏人は思った。この記者がこの数字を二年間追い続けている理由が、この声の中にある。奏人は聞かなかった。聞かない方がいいと思ったのではなく、聞く必要がなかった。理由は違っても、見ているものは同じだとわかったからだ。

 黒崎はコーヒーを一口飲んで、記者の顔に戻った。

 「柊さん、このデータの代わりに、一つお教えしたいことがあります」

 「何ですか」

 「水上隆久の過去です」

 黒崎の取材ノートから再構成された、水上隆久の前半生。

 水上隆久。一九七一年生まれ。三人兄弟の末っ子。

 父は地方都市で質屋を営んでいた。「水上質店」。商店街の一角にある、小さな店だった。ガラスケースに時計や指輪やカメラが並ぶ、昔ながらの質屋。木のカウンター。蛍光灯の光。

 長男が店を継いだ。次男は市役所に入った。末っ子の隆久だけが「値踏みの才能」を持っていると、父は言っていたそうだ。しかし店を継がせたのは長男だった。長男が長男だからという理由で。

 黒崎はノートをめくった。

 「親戚の方から聞いた話です。お父さんは隆久少年に言ったそうです。『お前には才能がある。だから継がせられない』」

 奏人は黒崎を見た。

 「才能がある。だから継がせられない。——三十年経っても、意味がわからなかった、と話していた人がいました。水上さんの高校時代の同級生です」

 才能を認めながら、継がせなかった父。自分より劣ると思っていた兄が、長男だというだけで跡継ぎになった事実。七歳で「査定とは人を見るんだ」と教えられた末っ子は、十七歳までに「値踏みされる側」の痛みを覚えていた。誰も信用しない。誰よりも強くなければ、生き残れない。

 水上は二十歳で家を出た。

 大手買取チェーン「トレジャーマート」に入社した。全国百八十店舗のチェーン。水上はエリアマネージャーになり、担当エリアの売上を二年連続トップにした。「査定の神様」と社内で呼ばれた。

 しかし本部と対立した。

 「聞いていなかった費用が次々と請求された」

 黒崎はICレコーダーを止めずに、奏人を見た。

 奏人はコーヒーカップを持ったまま、動かなかった。

 「聞いていなかった費用」。水上が叫んだ言葉。FC本部に対して、かつての水上が叫んだ言葉。

 「休店同意金」。契約書のどこにも書いてない金額。六十万が百八十万になった、あの請求。

 水上は裁判を起こした。勝った。そして独立した。

 独立後、元部下の稲葉という男が先に会社を作っていた。「ゴールドクレスト」。小さな買取店を三店舗だけ運営していた。水上が合流した。半年後、水上が代表取締役に就任し、稲葉は取締役に降格した。

 稲葉。田代のメールのCCにあった名前だった。

 「もう一つ」と黒崎は言った。

 「水上さんのお父さんの店、質屋ですが。潰れたそうです」

 奏人は顔を上げた。

 「大手のリサイクルチェーンが、同じ商店街に出店したんです。客を全部持っていかれた。水上さんが三十歳のとき。お父さんは店を畳んで、看板を外した」

 黒崎は手元のノートに目を落とした。

 「近所の人の話では、看板を外す日、水上さんが店の前に立っていたそうです。ずっと立っていたと」

 奏人はコーヒーカップを口に運んだ。冷めていた。いつから冷めていたのか、わからなかった。

 看板を外す日。父の店が潰される日。それを見ていた男が、千六百の店舗を束ねる側に回った。「聞いていなかった費用」に苦しんだ男が、「休店同意金」を請求する側に回った。

 自分もいつか、と思いかけて、やめた。

 黒崎が帰り際に言った。

 「柊さん、もう一つお伝えしたいことがあります」

 「何ですか」

 「水上さんの近くにいた人に、先月会えたんです」

 黒崎はノートを閉じずに、最後のページを開いたままにしていた。

 ページの上に、名前が一つ書いてあった。

 奥村慎一。

 「以前、ゴールドクレストの経営企画にいた人です。今は別の会社にいます。役職や時期は、記事には書きません」

 「なぜですか」

 「その人を守るためです」

 黒崎はそう言ってから、少しだけ間を置いた。

 「奥村さんは、話す前に必ず腕時計を見るんです。時間を気にしているわけではない。言っていいことと、言ってはいけないことの境界を測っているんです」

 奏人は黒崎のノートを見た。奥村慎一。知らない名前だった。

 「その方が、こう言いました。——あの会社では、止めることより、止めなかった理由を作る方が早かった」

 奏人は顔を上げた。

 黒崎は続けた。

 「水上さんは、加盟店も社員も、みんなどこかで敵だと思っていた。部下同士が仲良くしていると、不機嫌になる。表彰式でも、受賞者の隣に立つのが嫌そうだった。一番じゃないと、その場にいられない人だった」

 奏人は黒崎の顔を見た。黒崎は表情を変えずに続けた。

 「水上さんの周りには、いつも人がいた。でも、水上さんはいつも一人だった——奥村さんはそう言っていました」

 黒崎はノートを閉じた。

 「ただ、奥村さんは正義の人ではありません」

 「どういう意味ですか」

 「見ていた人です。止めた人ではない」

 その言葉は、テーブルの上に置かれたまま、しばらく動かなかった。

 奏人は何も言わなかった。

 「もう一つ」と黒崎は言った。

 「水上さんの過去の裁判、判決文を取り寄せました。面白いことが書いてあります」

 奏人は黒崎を見た。

 「水上さんの代理人弁護士の名前です」

 黒崎はノートをめくった。

 「——濱口、って人です」

 奏人は一瞬、意味がわからなかった。

 濱口。ゴールドクレストの顧問弁護士。仮差押を申し立てた弁護士。和解案を出してきた弁護士。

 同じ弁護士だった。

 二十年前に水上を救った弁護士が、今、水上の盾になっている。

 黒崎は立ち上がった。ICレコーダーをバッグに入れた。

 「水上さんは、自分がやられたことを、自分がやる側になった。濱口さんは、水上さんを救った手法で、今度は水上さんを守っている。ブーメランです」

 黒崎はそう言って、店を出た。

 奏人は冷めたコーヒーの前に座っていた。

第十二章 弁護士の告白

 二〇二六年四月。

 奏人の手元に一通の文書が届いた。

 弁護士会の調査手続に対する、濱口弁護士の回答書。奏人が申し立てた調査に対して、濱口が弁護士会に提出した弁明だった。奏人の弁護士が写しを入手した。

 A4で八ページ。奏人は自宅のデスクで読み始めた。

 濱口の主張は明快だった。仮差押は適法であった。保全の必要性は認められる。自分の業務に問題はない。条文の引用。判例の参照。手続き論に終始した文書。

 一ページ目。二ページ目。三ページ目。法的な言葉が並んでいる。「被保全債権の存在」。「保全の必要性」。「社会通念上相当な範囲」。弁護士が弁護士に向けて書いた文書。一般人が読むことは想定されていない。

 しかし第五ページに、一つの段落があった。

 奏人は読み進める手を止めた。

 ——仮差押は、債務者からの自発的な弁済もしくは示談による解決を期して継続したものであり、保全手続の趣旨に反するものではない。

 奏人はこの一文を読み返した。二回。三回。

 自発的な弁済。もしくは示談。を期して。継続した。

 法律の言葉を、普通の言葉に置き換える。奏人は帳簿を読む人間だった。数字の意味を読み取る人間だった。法律の文も、数字と同じように読める。

 「自発的な弁済を期して継続した」。

 つまり、相手が自分から金を払うことを期待して、仮差押を続けた。

 「示談による解決を期して」。

 つまり、示談——和解——に応じることを期待して。

 この一文が言っていることは、こうだ。

 仮差押の目的は、保全ではなかった。

 口座に十八万七千円しかないことは、最初からわかっていた。二百五十万円の債権を保全する手段としては無意味だった。しかしそれでも継続した。相手が金を払うか、示談に応じることを「期して」。

 圧力だった。

 濱口は弁護士会への弁明で、自分を守るために書いた。自分の業務は正当だったと主張するために。しかしその弁明の中に、クライアントの訴訟を傷つける一文を入れてしまった。

 本訴では「因果関係がない」「故意過失がない」と主張している。仮差押は適法な手続きであり、原告の損害とは無関係だと。

 しかし弁護士会には「示談のために継続した」と書いた。

 矛盾している。

 「何もしていない」と本訴で言いながら、「金を引き出すために続けた」と弁護士会に言っている。

 翌日。奏人は弁護士事務所を訪ねた。

 弁護士は回答書のコピーを広げて、奏人に説明した。

 「濱口さんは二十年間、水上さんを守ってきた弁護士です。今回、自分を守ることを選んだ」

 弁護士はペンで回答書の一文を指した。

 「これを甲号証として出します」

 奏人は何も言わなかった。弁護士は続けた。

 「本訴の答弁書にも、似た表現があります。覚えていますか」

 奏人は覚えていた。半年前、この事務所で初めて読んだ一文。

 ——債務者との任意の交渉による解決が見込まれる状況にあった。

 「任意の交渉による解決」と「自発的な弁済もしくは示談」。同じことを、違う場所で、違う相手に向かって言っている。二つの文書が、同じ本音を二度告白している。

 弁護士はもう一枚、別の紙を出した。

 ゴールドクレストが株主向けに出した説明資料だった。そこには、加盟店とのトラブルについて「一部の契約解釈に関する見解の相違」と書かれていた。

 見解の相違。

 奏人はその言葉を見た。

 弁護士会には、示談を期待して仮差押を継続したと書く。本訴では、損害とは無関係だと書く。株主向けには、見解の相違だと書く。

 同じ出来事が、相手によって名前を変えている。

 圧力。手続き。見解の相違。

 三つの言葉が、同じものを指していた。

 弁護士事務所を出た後、奏人は神保町を歩いた。

 靖国通りの信号で立ち止まった。信号が変わった。渡らなかった。

 次の信号まで待った。信号が変わった。今度は渡った。

 柊書房の前を通り過ぎた。シャッターが下りている。もう航平はいない。常連の赤羽さんはまだ来ているのだろうか。来ているなら、誰が初版本の紙の違いを教えるのだろうか。

 奏人はそのまま歩いた。どこに向かっているのか、自分でもわからなかった。

第十三章 黒崎の記事

 二〇二七年四月十日。木曜日。午後十一時。

 『ウィークリー・ジャパン』編集部。五階のフロアに、黒崎美咲は一人で残っていた。

 デスクの上にコーヒーカップが三つ。うち二つは空で、一つは冷めている。ノートパソコンの画面に、記事の最終稿が映っていた。四千八百字。三ページ分。タイトルはまだ決まっていない。

 黒崎はタイトルを三回変えた。最初は「ゴールドクレストの継続率問題」。削除した。弱い。次に「消えた842店舗」。削除した。数字だけでは読まれない。三回目に書いたのは——

 ゴールドクレスト 継続率89.7%の欺瞞——842の消えた店舗と、9億円の違約金ビジネス

 「欺瞞」。重い言葉だった。この一語を使えば、ゴールドクレストは法的措置を取る可能性がある。黒崎はそれを知っていた。

 編集長の田辺が帰り際に言った言葉が残っている。夕方六時、ジャケットを羽織りながら黒崎のデスクに寄って、画面を覗いた。

 「欺瞞はやめろ。乖離、にしておけ」

 「乖離では意味が変わります。意図的に見せ方を変えたことが問題なんです」

 田辺は眼鏡を外して磨いた。考えているときの癖だった。

 「訴えられたら、うちが持つんだぞ」

 「訴えてくれたら、法廷で全部出せます」

 黒崎がそう言ったとき、田辺は眼鏡をかけ直して、黒崎の顔を見た。三秒ほど。何を見ているのか、黒崎にはわかった。覚悟を見ている。

 「……好きにしろ」

 田辺はそう言って、帰った。

 午前零時を過ぎた。黒崎は記事を最初から読み返した。データの出所は匿名にしてある。元オーナーの名前は一切出していない。数字はすべて公開情報から算出できる。有価証券報告書。EDINET。誰でもアクセスできるデータだ。

 しかし、このデータを組み合わせて一つの記事にした人間は、これまでいなかった。

 黒崎はノートパソコンを閉じた。デスクの引き出しからガムを出して、一枚噛んだ。ミントの味。眠気が少し引いた。

 引き出しの奥に、古いメモ帳がある。取材ノート。二年分。最初のページに、日付と場所が書いてある。二年前の自分の字。黒崎はそのページを見なかった。見なくても、覚えている。

 午前一時。黒崎はコートを取って、編集部を出た。

 四月十四日。月曜日。

 経済誌『ウィークリー・ジャパン』の最新号が書店に並んだ。

 三ページの特集記事。署名は黒崎美咲。

 記事はデータから始まっていた。グラフが二つ。一つは公式発表の単年度継続率。89.7%。もう一つは、有価証券報告書から算出した累計閉店率。52.6%。二本の線が、同じ出発点から分かれていく。

 同じデータから、二つの数字が導き出される。見せ方が違うだけで、事実は一つだ。

 記事は違約金の構造にも踏み込んでいた。過去六年間の違約関連収入——有価証券報告書から算出した推計——は累計で六億四千万円。十年間では九億二千万円。加盟店が撤退するたびに、本部に違約金が流れ込む。加盟店が消えるほど、本部は儲かる。

 データの出所は匿名だった。「複数の元加盟店オーナーへの取材と、公開情報の分析に基づく」と記事は述べている。

 読む者が読めば、出所はわかる。

 記事掲載の翌営業日。

 ゴールドクレストの株価が下がった。SNSでハッシュタグが回り始めた。元加盟店オーナーたちが、一人、また一人と声を上げた。口外禁止の条項がある者は黙っていた。条項がない者、期限が切れた者、もう何も失うものがない者たちが、声を上げた。

 四月十六日。水曜日。午後七時。

 神田の貸し会議室に、二十七人が集まった。

 看板は出していない。受付もない。ドアの横に、A4の紙が一枚だけ貼ってある。

 「資料確認の会」

 それだけだった。

 糾弾の場ではなかった。拍手もなかった。壇上もなかった。長テーブルを四列並べ、古いプロジェクターを一台置いただけの部屋だった。

 奏人は後ろの席に座った。前方で弁護士が説明している。記事に出た数字の意味。継続率の計算方法。メールを保存するときの注意点。スクリーンショットだけでなく、ヘッダーも残すこと。PDFは印刷せず、元データも残すこと。音声は切り抜かず、最初から最後まで残すこと。

 「何かを断定するためではありません」

 弁護士は言った。

 「あとから検証できる状態にしておくためです」

 会場の誰かがメモを取った。ボールペンの音がした。別の誰かが、スマートフォンでスライドを撮った。

 田代がいた。宮田もいた。大阪の元オーナーもいた。知らない顔もいた。記事を見て来た人間だった。自分の話が同じ構造なのか、まだわからない人たちだった。

 黒崎は壁際に立っていた。取材はしていない。ICレコーダーも出していない。ただ、部屋全体を見ていた。

 会の終わりに、田代が手を挙げた。

 「自分の資料が、役に立つかどうかわかりません」

 弁護士は答えた。

 「今は、わからなくていいです。捨てないでください」

 それだけだった。

 奏人はその言葉を聞いて、三日前の田代の投稿を思い出した。

 これ、記録になりますか。

 なる。

 会議室の蛍光灯が、微かに鳴っていた。

 四月十八日。金曜日。午後二時。

 ゴールドクレスト本社。八階の会議室。記者会見。

 水上隆久が壇上に座った。紺のスーツ。ネクタイはしていない。いつもの水上だった。背筋が伸びている。日焼けした肌。五十六歳。まだ現場の人間の顔をしていた。隣に広報担当が座っている。その隣に、濱口弁護士。

 記者席は満席だった。四十脚の椅子は全て埋まり、立ち見が十人ほどいた。テレビカメラが二台。

 水上はマイクに向かって話した。

 「継続率の定義について、誤解を招く表現があったことは事実です。この点については、今後の開示において改善してまいります」

 声は落ち着いていた。原稿を読んでいるようには見えなかった。しかし言葉を選んでいた。「誤解を招く表現」。誤りではなく、誤解。問題は数字にではなく、読み手の側にあるという含みだった。

 一拍置いて、続けた。

 「しかし、弊社のビジネスモデルの健全性に影響を与えるものではありません。加盟店の皆様との信頼関係は、引き続き弊社の最も重要な資産です」

 記者が手を挙げた。質問が飛ぶ。株価について。違約金の総額について。水上は一つずつ答えた。冷静に。正確に。数字を引用し、業績を説明し、将来の見通しを語った。

 質疑応答の終盤。

 最前列の黒崎が手を挙げた。

 「水上社長にお伺いします」

 水上は黒崎を見た。記事を書いた記者であることは、知っている。

 「水上社長ご自身も、かつてフランチャイズ本部を相手に裁判を起こされていますね」

 会場が静まった。カメラのシャッター音が止まった。

 「元のチェーンで、『聞いていなかった費用が次々と請求された』として訴訟を起こし、独立されたと伺っています。その経験と、現在の加盟店からの訴訟に、構造的な類似性を感じませんか」

 水上は答えなかった。

 初めて、答えなかった。

 一秒。二秒。三秒。四秒。

 四秒間、水上は黒崎を見ていた。黒崎も水上を見ていた。記者席の誰も動かなかった。

 広報担当が口を開いた。「次の質問をお願いいたします」

 水上は壇上で微動だにしなかった。表情は変わらない。背筋は伸びたままだった。しかし、何も言わなかった。

 言わなかったのか、言えなかったのか。

 記者会見は予定通り午後三時に終了した。

 会見場を出ると、黒崎のスマートフォンが鳴った。非通知。

 出た。

 「ウィークリー・ジャパンの黒崎さんですか。ゴールドクレスト法務部です」

 男の声だった。低くて、丁寧で、抑揚がない。

 「今回の記事について、弊社として重大な懸念を持っております。事実誤認が含まれている可能性があり、法的措置を検討しております」

 黒崎は会見場の廊下に立っていた。他の記者たちがエレベーターに向かって歩いていく。

 「事実誤認の具体的な箇所を教えてください」

 電話の向こうが沈黙した。三秒。

 「追って書面でお伝えします」

 電話が切れた。

 黒崎はスマートフォンをポケットにしまった。書面は来ないだろう、と思った。事実誤認があるなら、具体的な箇所を即座に指摘できるはずだ。指摘できないのは、誤認がないからだ。

 打った。しかし引くだろう。

 黒崎はエレベーターに向かった。ボタンを押した。待っている間に、もう一通、メッセージが来た。知らない番号。

 「奥村です。記事を読みました。まだ話していないことがあります」

 黒崎はそのメッセージを読んで、返信した。

 「お話を伺います」

 短く。余計なことは書かない。

 エレベーターが来た。黒崎は乗った。一階のボタンを押す前に、メッセージをもう一度見た。

 まだ話していないことがあります。

 話していないことがある人間は、たいてい、話さなかった理由も持っている。

第十四章 集結

 二〇二八年三月。東京。日曜日の午後。

 新宿の貸し会議室。六階。エレベーターを降りると、廊下にパイプ椅子を持った男がいた。会議室に入りきらなかったパイプ椅子を、廊下に並べている。

 奏人が着いたとき、会議室はすでに満席だった。長テーブルが四列。パイプ椅子が八十脚。それでも足りず、壁際に立っている人がいた。

 名札を配っている女性がいた。ボランティアだという。白い紙に名前を手書きして、安全ピンで留める。奏人は名札を受け取った。「柊奏人」。手書きの字は丸かった。航平の字に似ていた。

 部屋を見回した。知らない顔ばかりだった。チャットグループでは文字だけの付き合いだった。ハンドルネームと実名が一致しない人もいる。年齢もばらばらだった。三十代もいれば、七十代もいた。共通点は一つだけだった。

 最前列に、宮田がいた。

 北海道から来ていた。スーツを着ている。ネクタイが少し曲がっている。隣の席の男と話をしていた。大阪の元オーナーだった。二人とも少し緊張していた。画面の向こうにいた人間が、目の前にいる。その距離感に、まだ慣れていないようだった。

 後ろの列で、一人だけ何も言わずに座っている男がいた。田代だった。福岡から来ている。奏人はチャットで田代の名前を知っている。「もう怖くないです」と書いた男。実物は小柄で、肩幅が狭かった。日に焼けた顔。爪が短い。長く現場仕事をしていた手だった。

 田代は奏人に気づいた。立ち上がって、頭を下げた。

 「柊さんですか」

 「はい」

 「田代です。福岡の」

 声が小さかった。チャットで「もう怖くないです」と書いた男の声は、会議室では小さかった。

 奏人は田代と握手した。手が冷たかった。三月だった。

 会議は二時間かかった。

 弁護団の候補者が説明した。争点の整理。費用の見積もり。勝訴の見通し。実名で名乗り出ることのリスク。

 誰かが「勝てるんですか」と聞いた。弁護士は正直に答えた。「わかりません。しかし、争点を絞れば戦えます」

 争点は一つに絞られた。「欺瞞的勧誘」。

 個々の違約金や仮差押の問題ではない。継続率89.7%という数字を信じて加盟の意思決定をした——その意思決定を歪めたことを争う。六十三人が、同じ数字を見て、同じ説明会を聞いて、同じ契約書にサインした。

 会議の終わり、代表者を決める段になった。宮田が奏人の名前を挙げた。奏人は首を振った。

 「俺じゃない方がいい」

 理由は言わなかった。弁護団の一人に名前を連ねるだけにした。

 会議室を出るとき、田代が追いかけてきた。

 「柊さん、あの」

 田代は名札をまだ胸につけていた。手書きの名前。

 「ありがとうございます」

 奏人は何に対する礼かわからなかった。聞かなかった。田代はそれだけ言って、エレベーターに向かった。小柄な背中が、廊下の蛍光灯の下を遠ざかっていった。

 集団訴訟が東京地方裁判所に提起された。原告六十三名。

 二〇二八年十一月。第三回口頭弁論。

 宮田が証言台に立った。

 北海道から来た。飛行機代は自分で払った。六十歳。白髪が増えていた。スーツを着慣れていない。ネクタイが少し曲がっている。右手が小さく震えていた。法廷に立つのは初めてだった。

 裁判官が宮田に質問した。加盟の経緯。営業の実態。撤退の事情。

 宮田は一つずつ答えた。ゆっくりと。言葉を選びながら。北海道の訛りが出たり引っ込んだりした。

 「私は北海道で五年間、毎朝五時に起きて店を開けました」

 法廷が静かになった。

 「月商は、本部が説明会で言った金額の半分にも届きませんでした。広告を出しても、チラシを撒いても。でも私は続けました。お客さんがいたからです」

 宮田は一度、言葉を切った。

 「毎週来てくれるおばあちゃんがいました。形見の指輪を査定してくれって持ってくるんです。売らないんですけどね。値段だけ知りたいって。毎週来て、同じ指輪の値段を聞いて、安心して帰っていく」

 傍聴席の誰かが、鼻をすすった。

 「そのおばあちゃんに、店を閉めますって言ったとき——」

 宮田は水を飲もうとして、コップを取り落としそうになった。書記官が紙コップを差し出した。宮田は「すみません」と言って、水を飲んだ。手が震えていた。

 「五年間やりました。契約を更新しないと伝えたら、突然、十二回の入金遅延を理由に——」

 また言葉が切れた。宮田は唇を噛んだ。

 「遅延は一日か二日です。三年以上前のものも含まれていました。それまで一度も指摘されたことはありません」

 宮田は法廷を見回した。傍聴席に奏人がいた。宮田と目が合った。

 「それでも水上さんは、私のことを『話が通じない人間だ』と言いました」

 誰も動かなかった。

 原告側弁護士が証拠を提示した。

 スクリーンにメールの画像が映し出された。

 一通目。二〇二二年七月。大阪の元オーナー宛。
 二通目。二〇二三年三月。福岡の元オーナー宛。
 三通目。二〇二三年十一月。名古屋の元オーナー宛。

 次々に表示されていく。四通目。五通目。六通目。

 八通のメール。八人の加盟店。送信日はそれぞれ異なる。

 しかし本文は一字一句同じだった。

 金利六%、九%、十二%。連帯保証人。回答期限五日。

 「問題は放置するほど大きくなり、やがてあなた自身に返ってきます」

 同じ文面が、八人に送られていた。

 原告側弁護士が続けた。

 「次に、これらのメールのヘッダーをご覧ください」

 スクリーンが切り替わった。八通のメールのCC欄が、横に並んで表示された。

 同じ名前が並んでいた。十二の名前。送信日も宛先も異なるメールに、同じ十二人がCCとして入っていた。管理部。スーパーバイザー。そして、取締役。

 個人の判断ではなかった。

 裁判官が初めて眉を動かした。

 傍聴席の最後列に、奏人は座っていた。

 隣の席は空いていた。航平は来なかった。来なくていいと奏人が言った。「兄貴の裁判じゃない」と。

 少し離れた席に、見慣れない男がいた。

 灰色のスーツ。五十代前半。背筋は伸びているが、肩だけが少し内側に入っている。法廷に慣れている人間の座り方ではなかった。かといって、初めて来た人間の落ち着かなさでもなかった。

 男は証拠のスクリーンを見ていなかった。

 被告席を見ていた。

 休廷になったとき、黒崎が奏人の横に来た。小声で言った。

 「後ろの男性、奥村さんです」

 奏人は振り返らなかった。

 黒崎は続けた。

 「今日は、聞きに来ただけです。話すわけではありません」

 「どうして来たんですか」

 「聞いておきたいんだと思います。自分が止めなかったものが、どう読まれているのか」

 奏人は何も言わなかった。

 傍聴席には、外から傷つけられた人間が座っている。

 その後ろに、内側で見ていた人間が座っている。

 同じ法廷で、同じスクリーンを見ている。

 法廷を出て、廊下でスマートフォンを確認した。航平からLINEが来ていた。

 「見てるぞ」

 それだけだった。何を見ているのかは書いていなかった。裁判のニュースか。SNSの投稿か。それとも別の何かか。

 奏人にはわかった。わかったが、返信はしなかった。既読だけがついた。

第十五章 鏡

 二〇二九年三月。東京地方裁判所。

 集団訴訟の和解協議。第七回期日。

 法廷は三階にあった。エレベーターは使わなかった。階段を上がる。裁判所の階段は広い。足音が壁に反射する。

 法廷のドアは重かった。木製の両開き。取っ手は真鍮で、無数の手に触れて光っている。

 中に入ると、蛍光灯の白い光があった。天井が高い。音が吸い込まれる。足元はリノリウムの床で、靴音が硬く響く。正面に裁判官席。その両脇に書記官席。右手に原告席、左手に被告席。傍聴席は背もたれのない長椅子が六列。木の椅子だった。座ると冷たい。

 この日、水上隆久が初めて法廷に現れた。

 これまでの期日はすべて代理人弁護士が出席していた。水上本人は一度も姿を見せなかった。しかし和解協議の最終局面で、裁判所が本人の出席を要請した。

 午後一時。法廷のドアが開いた。

 水上は一人で入ってきた。濱口弁護士が後ろにいた。水上の靴音がリノリウムの床を叩いた。革靴。磨いてある。一歩ずつ、正確に歩いた。

 紺のスーツ。ネクタイなし。背筋は伸びている。日焼けした肌。高級時計はつけていない。五十八歳。まだ現場の人間の顔をしていた。しかし、靴音だけが少し速かった。いつもの水上なら、こういう場所でも悠然と歩くはずだった。

 傍聴席には六十三人の元加盟店オーナーがいた。北海道から来た宮田。大阪の元オーナー。福岡の田代。名古屋。仙台。全国から集まった人間たちが、同じ方向を見ていた。

 水上は傍聴席を見なかった。原告席の方も見なかった。正面の裁判官だけを見て、席に着いた。椅子が軋んだ。法廷が静かだったから、椅子の音がよく聞こえた。

 裁判官が和解の条件を読み上げた。双方の代理人が意見を述べた。手続き的なやり取りが三十分ほど続いた。

 それから裁判官が言った。

 「被告代表者に、直接お伺いしたいことがあります」

 水上が顔を上げた。

 「本件の和解にあたり、被告代表者として、何かお話しになりたいことはありますか」

 和解のための発言の機会だった。証言台ではない。強制ではない。話しても話さなくてもいい。

 水上は席を立った。

 被告席からマイクまで、五歩だった。水上はその五歩を歩いた。革靴がリノリウムの床を五回叩いた。法廷の中で、その音だけが響いた。

 マイクの前に立った。マイクは証言台の脇にある細いスタンドに付いている。高さは水上の胸のあたりだった。水上は手をマイクに添えた。指先が触れたとき、マイクが微かに振動した。

 口を開いた。

 そして閉じた。

 もう一度開いた。

 水上の目に、傍聴席が映った。

 六十三人。

 全員が自分を見ている。

 宮田がいた。ネクタイが少し曲がっている。北海道から来た男。毎朝五時に起きて、おばあちゃんの指輪を査定していた男。

 田代がいた。自己破産した男。初めて声を上げた男。「もう怖くないです」と書いた男。

 最後列に、別の男がいた。

 灰色のスーツ。五十代前半。奥村慎一。

 水上は一瞬、そこだけを見た。

 なぜここにいる。

 そう思った瞬間、自分の中にある言葉が先に出かけた。

 裏切ったのか。

 だが、水上はその言葉を飲み込んだ。奥村は何も話していない。ただ座っているだけだった。証言台にも立っていない。資料も出していない。こちらを睨んでもいない。

 見ているだけだった。

 水上はそれが一番嫌だった。

 奥村は、昔からそうだった。会議で強く反対することはない。大声を出すこともない。ただ、議事録の端に小さな修正を入れる。リスクがあります、と書く。検討を要します、と書く。水上はそのたびに、ペンで線を引いた。今ここで止める話ではない、と言った。

 止める話ではない。

 その言葉を、何度言ったかわからない。

 奥村は黙った。黙ったまま、会社を去った。

 先に見捨てたのは、どちらだったのか。

 水上はその目を見た。

 知っている目だった。

 六十三人の目と、奥村の目が、水上を見ている。全員の目が、同じ色をしていた。

 ——違う。

 これは父の目だ。

 質屋の看板を長男に渡した日の、父の目だ。「お前には才能がある。だから継がせられない」。才能があるのに、継がせられない。三十年経っても、水上にはその言葉の意味がわからなかった。

 孤独ではなかった。一人でいることは苦ではなかった。ただ、全員が自分を見るとき、その目の色が、いつも父と同じだった。認めているのか、拒絶しているのか。水上には、最後まで区別がつかなかった。

 だから水上は、先に拒絶した。相手が自分を査定する前に、自分が相手を査定した。数字で。月商で。違約金で。そうすれば、父の目を見ずに済んだ。

 しかし今、六十三人の目が、水上を見ている。

 その後ろで、かつて内側にいた男も見ている。

 ガラスケースに並ぶ時計、指輪、カメラ。薄い蛍光灯の光。木のカウンター。

 「父ちゃん、どうやって値段決めるの」

 父は手を止めた。金の指輪を持ったまま、末っ子の顔を見た。

 「査定ってのは、ものを見るんじゃない。人を見るんだ」

 末っ子は頷いた。意味はわかっていなかった。七歳だった。指輪はただの金属だった。しかし父の手の中では、何か別のものに見えた。

 「持ち込む人にはな、事情がある。金が必要だから来るんだ。時計を手放すってことは、その人の時間を手放すってことだ。それを忘れるな」

 父はそう言って、指輪をガラスケースに戻した。

 末っ子は父の手を見ていた。ごつくて、傷があって、でも指先だけは繊細な手だった。

 法廷。

 水上はマイクの前に立っている。

 六十三人の目。

 奥村の目。

 「持ち込む人には事情がある」。父の声が、四十年の時間を超えて、水上の耳に届いた。

 加盟店にも事情があった。古書店の赤字を埋めたい男がいた。退職金で始めた男がいた。妻に内緒で借金した男がいた。五年間毎朝五時に起きた男がいた。

 水上は全員の事情を知らなかった。知ろうとしなかった。テンプレートを送った。同じ文面を。同じ選択肢を。同じ脅しを。

 査定ってのは、ものを見るんじゃない。人を見るんだ。

 水上は人を見なかった。数字を見た。月商を見た。違約金を見た。受取補償金を見た。

 傍聴席の宮田のネクタイが曲がっている。水上はそれを見た。

 水上が何を言ったかは、記録に残っていない。

終章 査定

ゴールドクレストの現金・預金約23億円
仮差押の被保全債権250万円
実際に凍結された口座残高18.7万円
解決金として提示された金額70万円
和解拒絶から取下げまでの日数10日
柊書房の年間純利益560万円
奏人が支払った加盟会費総額278.4万円
その間の遅延損害金1,480円
店舗継続率(GC発表)89.7%
累計閉店率(実態)52.6%
消えた店舗の数842
水上隆久の警察官在籍期間3年
テンプレートメールのCC人数12名
うち取締役1名
公正取引委員会への申告件数7件
資料確認の会に集まった人数27名
傍聴席にいた元内部者1名
水上の父の質屋が営業した年数38年
柊書房の在庫3,847冊

 これらの数字は、すべてフィクションである。

あとがき

 この原稿は段ボール箱に入っていた。

 揃えて、入れてあった。付箋もメモもなく。二百三十七枚のA4用紙が、ただ揃えて、入れてあった。

 箱を開けたのは、兄だった。

目次